「訊く」のこと
動詞「きく」の表記「訊く」のことが話題になっているようです。
なぜ広まった? 「『訊く』が正しい」という迷信 - アスペ日記
「訊く」という表記について - 蟹亭奇譚
まず、「訊」の字義を『大漢和辞典』で確認しておきたいと思います*1。
動詞としては
一とふ。(イ)たずねる。上の者が下に問ふ。(ロ)おとづれる。訪問する。(ハ)打ち叩いて問ふ。(ニ)せめとふ。問ひ究める。とがめとふ。
二つげる。しらせる。
三いさめる。
四いふ。のべる。
とあり、「ことばを発する」(ないし「移動する」)ところに力点があり、「(返事を必要として)ことばを発する」ところが「訊く」につながっていくものと考えられます*2。
日本語で「訊」字を使うのは、古くは『日本書紀』まで遡れるようですが、「問訊」の形で用いられるほか(訓は「とふ」)、「訊」で「とぶらふ」(主に「病を訊ふ」で用いられる、「見舞う」の意)と、「訊く」ではありません(『日本霊異記』も同傾向)。
というのも、『時代別国語大辞典上代編』の「きく[聞・聴]」項の【考】に
尋ねる・問いただすの意のキクは、まだ生じていなかったらしく、確実な用例は見当たらない。
とあります。
また、「訊」で「キク」の訓を持つ古辞書もないようで、「訊」の訓は「とふ」「とぶらふ」が当たっています。
とふ【訊】色葉・名義・和玉・文明・書言
とぶらふ【訊・咨・詢・】色葉・名義・和玉
(『日本国語大辞典』オンライン版)
「きく」の表記以前の問題と言えるでしょう。
では、"ask"の意味の「きく」はいつ頃から使われるようになったのでしょうか。
『日本国語大辞典』オンライン版によると、「きく」の意味・用例として、
(4)(答えを耳に入れようとして)人に尋ねる。考え、気持などを問う。
*源氏〔1001〜14頃〕夕顔「君も今更にもらさじとしのび給へば、若君の上をだにえきかず」
*方丈記〔1212〕「おのづから、事の便りに都をきけば、この山にこもり居て後、やむごとなき人のかくれ給へるもあまた聞こゆ」
*浮世草子・好色一代男〔1682〕一・五「其親里はときけば、山科の里にて、源八とかたる」
*二人女房〔1891〕〈尾崎紅葉〉上・七「『私は宜(よろし)うございまさあね。貴方さへ宜くば』『ええ、他人がましい事を言ふな。〈略〉胸を聞(キ)くのだ。お前の胸をよ』」
*はやり唄〔1902〕〈小杉天外〉九「貴女だって、良心に問(キ)いたら能く解るでせう」
とありました(用例には「訊く」表記はありませんが)。
『聴く』と『聞く』と『訊く』という動詞の差を説明してくさだい - 『訊く』と『... - Yahoo!知恵袋 に
一番いいのは「問」の訓読みに「きく」を追加して、「問く」と書いて「きく」と読むことです。
しかしそうはならなかったので、せっかく「問」という適切な漢字がありながら、使えません。
とありますが、近代には「問(キ)く」があったのですね。さすが、日本語表記の試行錯誤の時代というか。定着しなかったのが残念な気さえします。
ちょっと脱線しましたが、ここまでを確認すると、
- "ask"の意味の動詞は古くは「とふ」「とぶらふ」であったこと
- 「訊」字は「とふ」「とぶらふ」と訓まれてきたこと(つまり、「訊」字は古くから"ask"の意味を持つ)
- 「尋ねる、問う("ask")」の意味は動詞「きく」の中で派生的な意味(用法)であり、中古以降現れてきたこということがわかります。
ここまでを踏まえて、「訊く」の用例を探してみたところ……
中古以降「キク("ask"の意味)」に「訊」字を当てているものとしては、新編全集の『歎異抄』で「往生極楽の道を問ひ訊かんがためなり」とあるのですが…
写本では「トヒキカン」とあります。恐らく古くからある「問訊」からこの字を当てたものであって、「訊く」の用例とは言いがたいものです。
その後は探したんですけどなかなか見つからず。
見た中では、田山花袋の『老僧』(1901年「太陽」所収)が最も古い用例でした。
老僧の顏を見るや否、『向ふの川原もたうとう事業に取りかかりましたな?』と笑ひながら自分が訊くと、『いやもう始めては見ましたが、…
『何して居るんだネ』怪んで自分が訊くと、『橋を架けるんでさア!…
そのほか、以下が割と古い用例になります。
悪魔〔1903〕〈国木田独歩〉二「武様(たけさん)耶蘇(ヤソ)信者かって訊いてよ」
魔風恋風〔1903〕〈小杉天外〉後・仮病「何処に非の打つ処があると迫るやうに訊く」
解剖室〔1907〕〈三島霜川〉「『幾個ね』と艷(ツヤ)っ気(け)なしに訊く」
生〔1908〕〈田山花袋〉一二「餠を三軒ほど訊いて廻って、漸(やっ)と買って来て清(スマ)しの方が好いだらうと思って、あくぬきをして拵へたのさ」
あめりか物語〔1908〕〈永井荷風〉長髪「私は紫色の制服(ユニホーム)に金釦を輝かした黒奴の門番(ポルター)に訊くと」
(日国オンライン版)
1910年代に入ると
正宗白鳥、徳田秋声、夏目漱石、薄田泣菫、志賀直哉、里見〓とメジャーな作家の用例が見つかり、以降の用例はたくさん見ることができます。
id:kanimaster さんの
- "ask" の意味で「訊く」という表記が用いられるようになったのは、明治後期以降のことである。(少なくとも、「近年」ではないことはわかった。)
- 「訊く」表記は大正期に流行した可能性が高い。一人の作家の作品であっても、上に引用したように、ある時期のみ用いられている例があるからである。
- 日本文学、翻訳ものを問わず用いられるが、当時としては 《ちよつとハイカラな》文章表現だったのかもしれない。
という考察はうなずけます。
「太陽」で見ても、小説の用例が多いようで*3、何らかの表現価値を求めての「訊」字使用のように思います。
ちなみに、中近世の「訊」字の用例としては、
といった感じで、漢語で使われるのが多いのですが、「訊問」で「たづぬ」の例もありました*4。
現代でも「訊ねる」の用例は結構見つかります。
「訊」字に"ask"の意味を見る見方がそれなりにあるということの現れと考えられ、この辺りが「"ask"の意味では「訊く」と書くのが正しい」という考えにつながっているのかなと思います*5。
さてさて。
この話を見るまで、私は「「訊く」が正しいなんて思っている人がいるの?」派で、「訊く」表記がそんなに一般化しているとは知りませんでした。
私は、小説を最近書き始めたのですが、小説では基本的に『聞く』より『訊く』のほうがつかわれていますよね?
なんて、観測範囲の違いだよ!くらい。
近年「聞く」「訊く」の使い分けを説く人が多くなった結果かも知れませんが、「お巡りさんに道を訊く」というような表記がされるとしたら、私ははついて行けません。
に同感です、というか。
同訓異字の使い分けは個人による、くらいの認識でした。思ったより事態は進んでいるのかも。
今回の話については、「たずねる」の意味で「訊く」と使い分けをするのであれば、話者と相手の関係まで考えて使い分けをした方が、表現価値としては高まるんじゃないかなとか、余計なお世話ですが。
一般の人が「きく」を「訊く」と表記するようになるのは、やはり漢字仮名変換の影響(漢字を多用するだけでなく、手書きならしなかったような書き分けをするようになる)だと思います。
もちろん、表記はある程度は自由なので、文章の目的にあわせて書き分けができれば、問題ないわけですが*6。書かれたものから規範的なものを取り出すというのは、難しい時代になったなと、つくづく思います。
*1:「「漢字本来の意味」というのは開けてはいけないパンドラの箱」とあったけれど、ここからでないとこの話は始めにくい。
*2:大漢和辞典を字訓でひこうとしたとき、「きく」に「訊」字はなく「とう」にはあったので、諸橋轍次としては「訊」の訓として「きく」をみていなかったのだろう。
*3:雑感とかそういうのもあるにはある、1920年代以降か。
*4:なお、「訊」字は複合動詞後項で「ただす」の訓を持つようです。近代の例で、あまり多くなさそうですが。
神の委托事業〔1910〕〈留岡幸助〉「或人が旅行せんとするに当りて僕共(しもべども)に金子(キンス)を預け其預けたる金子を僕共が如何に処理したかと云ふことを、帰宅の後聞き訊すと云ふ一段であるが」
若い人〔1933〜37〕〈石坂洋次郎〉上・二「間崎は江波の異常な運動神経について体操の先生に問ひ訊(ただ)すと」
*5:「"ask"の意味では「訊く」と書くのが正しい」派の人に、「尋ねる」「訊ねる」の規範性について意見を聞いてみたい
*6:私の観測範囲では、現代書き言葉の表記の自由度は、公用文<新聞<<書籍<<雑誌<<<<<<<web と見ています。
訓読みと同語異語判別
さっきの「訊く」の話関連というか、もうちょっと違う話というか。
「漢字の訓読みに正解はありません」というのは本当にそのとおりなんだけれど、その一方で、漢字の使い分けによって意味を分けるというのも厳然としてあり、その境界が、その文章の目的(媒体)や書き手(人)によって異なるために、悩ましいことになるわけです*1。
いくつか例を挙げて考えてみたいと思います。
「あげる」の表記はいろいろあります。「上げる」「挙げる」「揚げる」…
意味的に「上げる」の派生といった感じですが、「代表的なものを〜」といったら「挙げる」、「油で〜」といったら「揚げる」ですよね。この辺は慣用的な使い分けがある、といったところです。
それに対して、「あずかる」を「預かる」「与る」と書きます。
この中で「与る」は「〜にあずかる」専用の表記であって、「(人)から(物)をあずかる」場合には使えません。つまり、文法的に「預かる」と「与る」は別物であって、いわゆる同音異義語(同訓異字)とは言いにくいものになります。私はいわゆる慣用的な使い分けとは別の次元であって、こういうものに関しては漢字の使い分けも必須になると考えています。
*1:例えば私は「「伺う」の「伺」にも "hear" や "ask" の意味はない」と思うので、「意見をうかがう」「(場所)に伺う」「様子を窺う」と書き分けますが、この辺は本当に人それぞれです
インターネットと私 2012
気付いたら2011年はブログを一度も書かずに終わっていました(正確に言うと懸賞応募エントリだけしてる。あと、誰も見ないようなところにつぶやき程度には書いてたり)。
twitterもつぶやき頻度がかなり低くなり。
はてブも数日に一度、ちょこちょこする程度。
じゃあどこに行ったの?というと、facebookなわけです(Google+はとりあえずはじめてみたけど、すぐ放置してしまった)。
- 実はtwitterは見てる
twitterはそれなりに見てます。特に「今、揺れたような気がする」ってときは必ず。
自分でも揺れたときはつぶやくことが多いかな。何となく。それ以外にも自転車に乗ったときとか、たまにつぶやいてますが……いつの間にか何かつぶやきづらい気持ちになったのです。私にはtwitterのリアルタイム性は強すぎる気がします。「なう」じゃなくちゃいけないような気がして。そんな縛りはないと、わかってはいるのだけれど。
iPhoneのアプリは純正のを使ってます。
以前、twitterでつぶやいていたようなことをこちらで。はてなスター大好きな私としては「いいね!」もいいねと思ってます。
「公開対象を設定できるといっても、そんな面倒なことはしないよぅ」と思っていたけれど、意外と使っていて、便利便利。
ただ、iPhoneのアプリもchromeの拡張も何かいまいちな感じがしています。
twitterよりfollowする人を少なくしているので、何か妙に安心感があるのは確か。
全然ブクマしなかったときもあったのですが、最近ぼちぼち復活しています(といっても、以前ほどではない。というか、昔のブクマ数はちょっとね、ないない)。
数も違うのですが、ブクマする内容はちょっと意識的に変えています。
たくさんブクマしていた頃は、それこそ「はてブはニュースサイトだ」的な考え方もあったりして、「ねぇ見て見て!こんなのあったよ!」的な感じでブクマしていたわけです。それプラス自分のための覚え書き。あとで見るかも的な。
今は、あとで見るかもがメインかなあ。どこかのサイトで刺激的な内容に出会っても、それを即ブクマしなくなりました。何というか、刺激が強いものって、自分にとってはよくても他の人が見たときを考えると怖いような気がして。いや、地雷なんてどこにどんなものが埋まっているか、想像しはじめるとキリがないことは重々承知してはいても、ちょっとやめておくかっていうのはよくあります。
良くも悪くも心がざわつくものというのは強い力を持っていると思うんだけれど、今はそれを自分のものとして手元に残しておきたくない。ブクマ=コレクション的な考えをいまだに持っているということにもなるんでしょうけど。
自分があまり触らなくなってから、はてブは以前よりパワーダウンしてると思い込んでたんだけど、最近お気に入りを見るようになったらそうでもなかった。もちろんいなくなっちゃった人もいるんだけど、変わらずブクマし続けている人もいて、懐かしさを感じたり。はてな村民として名前が挙がったことはないんだけど、はてなーなのかなとか改めて思いました。
- ブログ
ブログね、少しは書こうかと思ってます(はてなじゃない方の)。
というのも、昨年秋に自転車を新調して、ちょこちょこ乗るようになったときに、前の自転車でどんなところにどれくらいの時間をかけて行ったのかっていうのが、意外と役に立つわけです。まさに記録のいいところ。新しい自転車のことも、後で見返せばいい思い出になるはず。あと、同じような人がいないか検索してみても、意外と見つからなかったので、他の人の参考にもなるかもしれない。といいつつ、1月は書かずに終わりました…とほほ。
あと、この辺(http://yumizou.hatenablog.com/)も活用していけたらいいかも。かも。まだなにも書いてないけど。
- 読者として
最近はGoogle readerが主流なんでしょうか?LDRから簡単に乗り換えたりできるんだろうか。調べてみたこともない。
新たに読み始めるブログも年にいくつかはあるし、もう何年も読み続けているブログもあります。この読み続けるモチベーションって何だろうな?と自分でも思うのですが、役に立つとか、共感できる、なるほどと思うってほかに、ネットの向こう側の人自身に興味を持ってしまうパターンがあります。ストーカーちっくですが。「ネットウォッチ」といってもいい。よく言えば「見守り」?
- リアルなコミュニケーション
オフ会的なものとか、出なくなって数年になるでしょうか。今もブロガーイベントっぽいのは腰がひけるというか。
ustで顔出ししながらチャットしてたなんて、今だと考えにくい。いや、時間さえ何とかなればチャット自体は可能なんだけど、とにかくリアルタイムでないやり取りだと楽というか。顔を合わせて話をするときの楽しさは計り知れない、それはわかってるんだけど!
自分から動くことはまずないと思います(それは前から変わっていなくて、声をかけてもらうとほいほい動くタイプ)。時間の捻出がとにかく今の問題になっています。
そんな感じで、2012年も小町を読みつつ、ゆるーく何かを垂れ流していくと思います。よろしくお願いします。
■
>応募の際には、MacBook Airや今年のブログ生活にかける、あなたの想いをぜひ書きこんでください!
久しぶりのブログがこれなので何とも……なんだけど。
まだブログをやめた、ってところまでは行ってないので(自分の気持ち的には)、何か書きたいです。
名付け
発言小町で定期的にあがってくる話題の一つに「名付け」があります。
具体的な名前・用字について、第三者の印象を聞いてみたいというのがトピ立ての動機のようですが、「ダメ出しされたら名前を変えるんですか」「人に聞かないと決められないならやめた方がいい」なんてちょっと意地悪(と感じる、私には)なレスが付くことも。
名付けトピはとりあえず見かけたら目を通すようにしているのですが(趣味)、こだわりも人によっていろいろなんだなと本当に思います。
響き・雰囲気、漢字、字数・名字とのバランス、占い(姓名判断*1)……
響きについては
- 和風・洋風
- 国際的に通用するか
- 古くさくないか、今時すぎないか
- 縮めたときの呼び方
- 同じ響きで別の意味の単語がないか*2
あたりが、
漢字については
- 意味
- 読みやすいか
- 最近は難読名が多いと言われているためか、「○○って読めますか」といった質問をよく見ます。あと、男の子だと最近は音読みの名前が増えているような気がします*3。
- 説明しやすいか
あたりがポイントになっているようです。
あとは周りと重ならないかとか。
小町では「子どもの名前を真似されました」的なトピがこれまた定期的に立ちますし、流行の名前についてのトピでは「子どもの名前を呼んだら何人も振り返るのでは?」といったツッコミもあります。有名人の名前にあやかるというのは、その人のような子に育ってほしいという期待・願いからなのでしょう。身の周りの友人・知人と同じとなると、呼ぶたびにその人の顔が思い浮かびそうな気がしますが、どうなのでしょう。
私自身、子どもに名前をつけました*4。名前は一生ものと考えると、まあ緊張しました*5。手元にある本を久しぶりにめくり、図書館で本を借り、辞書をひき、口に出して響きを確認し、うまれた子どもの顔を見て雰囲気が合うか考えて。
私自身の名前と子どもの名前は全く違う漢字なのですが、意味的にはかなり近いことに、名前を付けたあとで気付きました。私の両親も私と同じように考えて名前を付けたのかもしれません。ちょっと新鮮な驚きでした。
どのような子に育ってほしいのかという期待・願いを込めて名前を付ける。人として(男性として、女性として)どうあってほしいか。何を好ましく思っているのか。どういう感覚を大切にしているのか。
子どもの名前というのは(名付け)親の価値観を反映、凝縮したものに見えてくるのです。
追記)
小町にはよく、「その名前はもって20代前半まで」とか「おばあちゃんになったらその名前はかわいそう」といった意見が出ます。確かに小さい頃だけをイメージして名付けをするとあまーい名前になってしまいそうな気がしますが、だからといっておじいさん・おばあさんになったときのことを想像するかというと……私はそこまでは考えませんでした。どうなんでしょ。
*1:小町には「画数は字の持つ数的な統計学」というご意見もありました。
*2:代表的なのが「ゆな」ちゃん。「「湯女」という言葉を知っていたら付けなかったのに……」と後悔の声も。
*3:2009年男子11位の「コウセイ」等。参考:名前の読み方ベスト50|名前ランキング2009|明治安田生命
*4:私が名前を考え、OKをもらう形でした。こじれてしまうと大変なようです。参考?:子供の名前の意味を考えて下さい(1/5) | OKWave
*5:名前の由来について作文を書かされることがあるらしい。参考:名前の由来ってそんなに必要な事ですか?今も小学校で名前の由来を作文に書かされ... - Yahoo!知恵袋
カタカナ
「国家生き残り戦略としての日本語リストラ - Tech Mom from Silicon Valley」を読んだ。
この手の議論はそれこそ100年以上前から(略)。普段ならブコメで済ますところなんだけど。
ちょっと書いておこうかと思うきっかけになった部分↓
水村美苗さんの本だったか、「かつてカタカナは、漢文を読み下すのに使われていた文字で、男・権威のある人が使うカナであったのに対し、ひらがなは女子供の文字だった」という話を読んで納得した。そういえば、明治憲法はカタカナで書いてある。その「外国からはいってきたものの権威」が、戦後残滓として残ったのが、「外国語はカタカナ」ということじゃないかと思う。
外来語をカタカナ表記することと、漢文を読み下す際に漢字カタカナ交じり表記することの関連が、何かあの本には書いてあるんだろうか?いや、何となく連想なんだろうなあ。
近代には普通の文章が漢字ひらがな交じり文で書かれるようになります。読売新聞とか漢字ひらがな交じり文ですね。でも西洋思想の翻訳には漢文調でなされるものも多く(「哲学」「範疇」などは西洋思想の翻訳から生まれた漢語)、評論のようなかたい文章も漢文調で書かれました。
法律等が漢字カタカナ交じり文で書かれているのは公式な文章だから。それまでは公式な文章は漢文で書かれており*1、その一環としてひらがなではなくカタカナなのです。
外来語をカタカナで書くのは権威付けではないと思われます。そもそも外来語のカタカナ表記は戦後はじまったわけではありません。『舞姫』とか、地名はカタカナ表記でしたよね。音を表すにはカタカナを使うというのはもっと古くからある、伝統的なもの(それこそ漢文訓読の流れ)です。
というわけで、カタカナ=「外国からはいってきたものの権威」は明らかに言い過ぎだよと。
どうにもこうにも、日本語の歴史を知る機会が少ない(大学で日本語・日本文学とか言語系とか先行しないかぎり「ない」?)。せっかく、日本語のことちょっと考えてみたって人がいるのに、基盤となる知識が与えられてないというのはとても残念なこと。国語教育に少し盛り込まれればいいのに。
Mebiusモニターになりました・その4
新メビウスの「おすすめポイント」について、ということなんですけど。
お盆に帰省したんですけど、そのとき持っていきました。フェリーの中でDVDを見ようと思って。ドライブがないので買ったのですが、時間がなくて(←言い訳)動作確認をしなかったのです。正確にいうと、CDを入れてはいOK!で終わらせてしまった。そうしたら、いざDVDを見ようとすると「デコーダがありません」とエラーが出てしまい。結局、フェリーのDVDデッキレンタルを使ってDVDを見ることに。
こんな話をすると、いいところに見えないかもしれませんが、やっぱり小さいっていいですね。気軽に持ち運べます。居間にぽんっと置いておいても邪魔にならないし。Windows Vista はどうにももっさり感がありますが、メモリを増やして少しはマシになったかな?といったところです。
今くらいの大きさでDVDとか見れると最高なんですけどね。
メモリ増やそう、マウスほしいな、DVDも…なんて、周辺機器を少しずつ充実させてしまいました。
持ち運ばないとき用にもWindows がほしいなとか思いはじめてしまって、結局iMacを買ってしまったのも、メビウスを使い始めた影響です。
ところで、使わなくなったパソコンって皆さん、どうしてるんでしょう?
デスクトップはさすがに邪魔なので、ハードオフとかに持っていってるのですが、ノートだとつい放置してしまっています。もう10年落ちくらいになりそうなメビウスがまだあったりします…。